明治の東京

明治中期の東京

 明治26年版、農商務省商工局編の「日本商工業要覧」による、明治中期ごろの東京市の姿を見てみよう。


 本市は東京府の管轄に属し、東経139度45分29秒、北緯35度40分、武蔵野国の東南部にあり、沃野西北に連り、内海東南を拓き、墨田川、芝それを続る市坊を麹町、日本橋、京橋、神田、浅草、下谷、本所、深川、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷の15区に分ち、広さ方4.7方里、戸数273,049、人口1,155,290

 本市はもと江戸と称し、慶長11年(1606年)徳川家康居城を修築してより200有余年間、将軍執政の地たり。明治維新の後、東京と改称し、皇都をここに遷してより、市区の面目随って更革し、官衛、兵営、議事堂、公使館、学校、協会、銀行、旅舎、劇場、病院、会社、製造所がその地の大建築は輸奐して興り、電信、電話の線は四通八達し、ガス、電灯はこの大都を不夜城にし、馬車、人力車は往来を織るが如く、戸口年々増加し、市境終に狭隘を告げに至る。

 昨年、市債を募集して市区改正に着手し、向う50年を以て成功せんことを期す。その商業および工業は、日に月に隆盛に趣き、自から全国の気運を制するの勢あり。諸市場23,銀行の本支店77、商業会社77、工業会社、製造所137、米商会所1、株式取引所1、銀行集会所1、この他農商工業の学校、協会、組合、列品所および商業会議所、商工業上の機関大に備わり、実に帝国第一の大都会なりとす。

 東京都の陸運は、本市の南部なる新橋より横浜(180 哩)、静岡(120哩)、名古屋(235哩)、京都(329哩)、大阪(356哩)等を経て神戸(376哩)に達する東海道鉄道あり、またその北部なる上野より宇都宮(66哩)、白河(114哩)、福島(166哩)、仙台(215哩)、盛岡(328 哩)等を経て青森(455哩)に達する所の東北鉄道あり、またその西部なる新宿より八王子(33哩)に達する所の甲武鉄道あり、而して陸路は本市、日本橋を起点として各府県に至る。里程を掲げると次の如し……。


在来工業

 明治、特に日清戦争以前の産業界は、海外から移植した紡績、製鉄、造船、機械、セメントなどの近代的な機械制の「輸入工業」と、江戸時代以前から日本の体内で育ってきた絹織物、和紙、陶磁器、漆器、七宝などの「在来小工業」とがはっきり区別され、対比されていた。この在来工業中に金属細工のかざり業の一つにわが「メッキ業」が含まれていた。

 これらの在来工業の多くは明治維新以後、士農工商の身分制度と職業の制限が解けるとともに、明治元年(1868)4月布告の「商法大意」によって、先進国から近代産業を移植することと、国内の商工業活動を自由化する方針がとられた。

 すなわち、これまでの徳川幕府や各藩の権力によって世襲的に保護されたメッキなど仲間のなかで協調するのではなく、お互いに積極的に競争することが新時代の商工業者のあり方として勧奨されたのである。

 しかし職業活動が自由になると、各地で際限なく生活するための家内工業者が発生、過当競争が始まりそれにつれて技術の未熟なための粗製品の乱造・投げ売りや売りくずしが行なわれた。たまたま明治7年から13年にかけて不換紙幣の乱発にもとづくインフレが進行したから、乱造・乱売はいっそう激しくなった。

 せっかく海外に輸出市場をつかんできた蚕糸、絹織物、漆器、茶、陶磁器をはじめアンモチニー製品などが当時、粗悪品の流出ですっかり信用を落し、輸出の増進は容易に期待できない状態になっていた。

 こうした在来小工業の疲弊と没落は政府の予想をこえるものがあり、輸出振興の必要からも無視できなかったから、在来小工業の救済あるいは振興論が台頭した。すなわち「興業意見」の編纂主任・前田正名は「固有工業の窮乏はまことに憂慮すべき状態にあり、輸入の機械工業の保護育成を優先した殖産興業政策は今後改めるべきである」と論じ、小工業の製品取締りや技術指導について積極的な施策を提案した。

 政府のとった機械工業の導入政策が、手段と費用を借しまなかったこととは対照的に在来諸産業の窮乏が放置されたことに対して、民間からもようやく不満や非難の声がつのっていった。

 このような情勢から、政府もメッキなどの在来の小工業に対して行政指導の必要を認め、明治17 年に「同業組合準則」を制定し(この準則はのちに「重要物産同業組合法」に発展した)、諸産地に製品の自主的な取締り機関として同業組合を設立することをすすめ、他方では家内工業者の技術指導にも政府が乗出すことにした。

 かくて明治20年代には、同業組合の組織と技術指導機関を中心に各産地の秩序はしだいに回復し、小工業の輸出も伸びるようになった。こうして曲折を経て家内工業やマニュファクチュア経営を主体とする小工業は,やがて機械力や動力を取り入れる時代を迎えたのである。

 こうした明治の先進的産業への芽ばえが徐々ながら根付いてきて、当メッキ業界でも仲間同志がよい意味での競争と独立にめざめ、さらに外来の電気メッキ技術にも企業化への研究がはじまった。

 そして商売は商売、同業者の親睦は親睦と… 団結への芽も出てきたのである。


   

明治21年の東京府内職種戸数

   ・食物に属する者      21職種、 1,970戸

   ・家屋および工事に属する者 37職種、11,799戸

   ・衣類に属する者      38職種、 4,064戸

   ・農事に属する者       3職種、    31戸

   ・製鉄および器機に属する者 21職種、 2,807戸

   ・日用什器に属する者   110職種、 7,984戸

   ・携帯品に属する者     28職種、 1,887戸

   ・文具に属する者      37職種、 2,021戸

   ・医事および薬品に属する者 13職種、    97戸

   ・装飾に属する者      67職種、 6,548戸

   ・嫉楽および玩具に属する者 33職種、   616戸

   ・その他に属する者     15職種、   588戸

   ・合計          423職種、40,372戸

  (注)明治21年12月1日調べ,郡区役所または戸長役場に備えた帳簿による。なお、メッキ業は装飾に属する者の中に含まれている。


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