江戸時代のメッキ産業

江戸時代のメッキ産業

 徳川時代、幕府や藩政に抱えられていた彫刻師、錺師たちは、倒幕によって明治時代から転業しなければならなかった。

 江戸時代から“男は腰のもの、女は髪のもの” といわれたように、男は刀の目貫き、鍔(つば)の打もの、矢立て(書記道具)、あるいは煙管(きせる)たばこ入れの前金物裏座といったものを贅沢(ぜいたく)につくった。女は平打ち簪(かんざし)などに、いわゆる金目のものとして金属飾りに粋を凝らしていた。

 こうした諸道具の錺師とか打物師といわれた人たちが職人芸をふるっていた。その創りの絵模様は、花鳥風月、竜、鳳凰(ほおおう)、駒などの動物図、あるいは官女とか天狗面、 般若面、また武士や貴族による武者模様といった、わが国独特の小美術の工夫が凝られていた。

 しかもこうした細工物には古くから鍍金(メッキ)技術が使われていた。メッキは昔からの「大内鍍金」といわれる金箔をひとつひとつ浮きあがらせるようなメッキ秘法が珍重されていた。また「金銀張分」「文銭鍍金」「きせるメッキ」といったものもあった。そしてこれらの技法は、1,200年前の「金銅鍍金仏像」以来、錺細工師たちによって伝承されていた。

 このころ錺師、打物師、鍍金師といわれるものは江戸職人の花形であったと想像される。

 江戸末期にはこれまで工芸美術品も、藩幕の権力機関である殿様用や武士用などの特権階級向きであったものが、しだいに解放されて大衆化され、町人や一般庶民の趣向となって愛好されるようになってきた。

 このように幕府から失業したかぎり師や鍍金師をはじめ、こうした職人的生産技術者たちは、政治、経済、文化の中心であった江戸−東京の本所、浅草付近にほとんど集っていた。

 当時は、江戸日本橋を中心街にして貴金属、銅器、金銀器、よろい刀剣類を扱う問屋商人、装身具飾りや、メッキ、彫刻などの美術工芸細工ものを扱う問屋・商業が繁昌をきわめた。

 それらの問屋は、さきにあげた彫刻師、メッキ職人、打物師、かざり師などが出入りする多数の職人を抱え、家内手工業を下請けにした問屋制商業資本として、当時の経済支配の実権を固めていた。


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