開国から明治の展開

明治の幕あけ

 我が国の今日の資本主義社会は、徳川時代の遺産の上に明治時代から発展した。工業においては明治政府が幕府や諸藩の直営工場を引継いで、その上に官営工場の強力な育成策がとられてきた。

 明治維新はまさに文明開花の幕あけで、汽車の運転は明治12年から日本人の手でおこなわれ、織物機械は豊田佐吉の発明によって24年は国産化の端緒が開かれた。そして明治初年に3,000万人余の日本の人口が,明治末年には6,000万人をこえる驚異的な増加率を示した。

 また経済では、東京正米の平均相場表は明治9年に1石建て年平均5円1銭であったのが、明治14年には年平均14円40銭にはねあがり、さらに松方正義大蔵郷の紙幣整理デフレ政策により、17年1月には4円61銭にまで急落するすさまじい変動時期だった。(1石は120kg)

 この松方の金融政策がいちおう終わったところで、三井・三菱などの政商たちに対して国民の税金によって造りあげた官営鉱山や、模範工場・造船所などの積極的な払下げを実施した。


帝都繁昌記

 そのころの東京は人力車夫と書生の;町といわれ、またレンガ街とガタ馬車の町、遊廓と男臭い町ともいわれた。

 明治15年に,東京の人力車の台数は2万5,000台、車夫が2〜3万人。それが10年後にはさらにふえ、営業人力車の数は6万台、うち4万台はたえず動いていた。 もちろん東京市の人口も88万〜150万人にふえている、それに書生が4〜5万人を数えていた。

 これらの書生には東京は、光り輝く文明のメッカとして、新興の活気と、自由なふんいきに包まれた未来都市に映じたにちがいない。

 当時の大学は、日本にただひとつ東京大学があるきりで、全学生3,000人のエリートが学んでいた。その他の有名校は、福沢の慶応義塾と15年に開設した早稲田の前身東京専門学校など指で数えるほどしかないが、しかしおびただしい私塾があった。

 明治15年11月、はじめて銀座に電灯がつき、見物人が山のようにあつまったと当時の新聞が伝え、そして電灯がやがて東京の一般家庭にともるようになったのは明治20年代に入ってからである。

 明治国家公認の淫売制度が、東京には新吉原・州崎・品川宿・内藤新宿・板橋宿・千住宿の6ヵ所に、400軒ほどの官許の貸座敷があり、3,000〜5,000人ほどの20才前後の娘が“蝋の鳥”として飼われていた。


   ・次のページへ(江戸時代のメッキ産業)
   
   ・前のページへ(西欧技術との接触)
   
・めっきの歴史 TOPへ