西欧技術との接触

万宝玉手箱について

 徳川末期の安政5年(1859)にオランダ医学の偉人杉田玄白の孫に当たる杉田梅里が、日ごろ西洋学のオランダ本を読んでいるうち、科学的に興味のある事項を訳したのを整理して「万宝玉手箱」として、一冊の本にまとめた。

 目次は54項目あり、その中にメッキ関係では次のように記している。


 メッキには金メッキがあるが,焼着法と浸漬法の2つに分れて、それぞれの必要な材料器具、工程などが説明されている。

1.焼着法

 =焼付けでメッキするには、まず黄金を寸平たく伸ばし、細かくきざむ。それを6倍量の水銀を加えて炭火上に加熱すれば、金が速やかに溶けて水銀アマルガムとなす。これを皮に包んで搾って水銀だけをろ過すると、皮内に残るのは水銀2対金1のアマルガムである。

 次に被メッキ物である銅器の表面の汚れを除くため、濃度を薄めた硝酸液にて洗浄しよくブラシで洗う。この上に前記水銀アマルガムを塗布して厚い層となす。

 次に水銀を蒸発させるために鉄板上に被メッキ物を置き、下から加熱する。その時逃げる水銀蒸気は猛毒のため、一ヵ所に集めて煙筒のようにして逃散させる。煙筒は鉄板にホーロー引したものがよく、それを折り曲げて、管端は水受けにして置くと、その水中に蒸発した水銀が管を通って流れ冷却されるため、ふたたび水銀となって水受皿にたまる。

 ところで銅器の表面はこの時、黒黄色となって金メッキができる。これを取出して布皮でよく磨き、仕上げるわけである。1回だけでは黄金色が出ないため、前後7回ぐらいやるとメッキ層が厚く、密着のよいすぐれた光沢のある金メッキに仕上がる。


2.浸漬法

 =硝酸2対塩酸1の割合の王水に黄金の粉末にしたものを同重量だけ入れ、水で16倍に薄めて金溶液を作り、2時間程加熱する。

 次にメッキしようとする銅器を酸液(水分7,硝酸1の割合)で洗浄し、鉄線で結んで溶剤中にかけると、メッキの原液の消耗するにしたがって時間を加減して取出すと前記金メッキができ上がる。これを中国から入ったころのメッキ技術と比較すると、文献にあるl000年前の奈良の大仏を参考にすると、金と水銀の比較は若干の相異があるが、そうたいして変りがない。

 前処理用の梅酢がサビ、汚れをとるのに効率的な硝酸を使用したこと、さらに水銀を蒸発するのにホーロー製の煙筒を用いて水銀を回収すると同時に、人体に有毒物質を付近に散らばさない技術を身につけたこと― など1000年前の大陸からの導入技術と、オランダ技術の影響は若干あった。しかし基本的な水銀アマルガムによる銅表面の金メッキは変っていない。


硝酸原料について

 江戸未期に使われた硝酸は16世紀の中ごろにポルトガル人がはじめて種ガ島に鉄砲を伝えて以来、火薬の需要が出てきて硝石を使って製造したものと推定される。

 当時、チリ硝石などの原料がなかったため、手洗い所付近では含窒素有機物が土壊中で腐敗して分解するとき、まずアンモニアを生じ、これは土壊中に存する亜硝酸バクテリアの作用によって亜硝酸に変し、次いで硝酸バクテリアの作用によって硝酸となったのを採取していた。土壊中の塩基性成分例えばカルシウムと作用し、硝酸塩になって土壌中に存在する。この変化を利用して火薬に使う硝石を製造したものである。

 このように早くから土壊中の硝石を原料として、他の酸液(硫酸など)を加へ、鋳鉄または耐酸性合金で作った燕留釜で100〜150℃の温度で反応させて硝酸を得ていた。

すなわち、


NaNO3+H2SO4=NaHSO4+HNO3

 というように………


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