江戸時代のメッキ

江戸時代のメッキ

 徳川時代中期の正徳5年(1715)、寺島良安が 30年の努力を傾けてΓ和漢三才図会」105巻が出版された。この内容は画図などを入れた今の百科事典で、第59巻には金類になって、そこにメッキの解説がしてある。

 
 鍍=金メッキ 鍍は金を以て物を飾るなり
  銅器は柔藁を以て摩琢し、梅酢を塗り、復藁を以て撫浄し、而して水銀を塗りてはくを置き、之を藝く
 俗に滅金と名づくるもの是れなり。
 焼着け=焼付けメッキ
  前の如く琢摩し、而して亜鉛と水銀を相和し、之を塗りてはくを置き、之をコく、滅金と同じくして稍勝れり、
 また、水銀にはくを和して塗り、之を葵く者を7度茫と名づく、金多く入れるを以て色濃く美なり。
 沃=銀メッキ
  (略)  

 主要材料の泊は、極上の品質は大焼貫と称し、刀剣の飾りメッキに使う。次は仏師伯と称し、仏像や仏具のメッキに使う。その次は江戸色と称して錺(かざり)屋が一般のメッキに使うと記してある。

 このように当時は、武士階級、仏教関係、一般雑貨の3段階のメッキ需要が分れていたようだ。

 また、幕末期の洋学者たちは、18世紀に西洋で体系化された化学知識を学んでおり、当時の幕府、諸藩も化学が軍事や殖産に利用できるのでその技術の摂取に努めた。

 たとえば薩摩の集成館でガラス器、アルコール、硫酸、硝酸、綿火薬などを作っていた。

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