伝統を引継ぐ

広がる需要

 軍事力による統一から大和朝延が“確立され”、やがて飛鳥時代に仏教が大陸から伝わって来て、寺院の経営から仏像、仏画の製作、仏具の製造などで金工技術も多彩をきわめて行った。そして金銅製品などのメッキ加工品も、権力者の持物からやがて貴族に普及し、さらに武士階級へ需要が広がった。

 しかし、その後の日本の富は、少数の支配者たちの手に永く握られていたため、せっかく数百年前に開発されたメッキ技術も停滞していたことがおしまれる。すなわち江戸末期まで藩閥や寺院の保護のもと、東京の浅草、本所付近にあった錺(かざり)職の仕事の一つに“お座敷メッキ”として、細々と水銀アマルガム法によるメッキが続いていた。このお座敷メッキは、坐りながら作業したことからきている。

 そのうち奈良時代の仏教関係でメッキされたものを見ると、仏像、舎利容器(骨つぼ)舎利塔、経塔、梵鐘などがある。舎利は仏教用語で教主である。インドの釈迦導の遺骨を分けて埋納したもの、傘形の墓が発達した。

 また当時のもので、東大寺にある鍍金狩狐文銀壷は有名である。そのころ日本人の手で、大型のものや精巧なものを製作する意欲は盛んだった。これらの作品は正倉院に伝わる仏具類や、聖武帝使用の日用道具類の素直さなどに現われている。

 なお、約1000年前に作られた金メッキ品で、今なお風雨にさらされているものとして、奈良東大寺にある大仏殿前の国宝ハ角灯籠がある。この灯籠は高さ4.6mで、八面の扉はすべて菱形格子に造ってあり、ここに伎楽菩薩と雲上獅子が四面に浮彫してある荘重、優雅な作品。2度にわたって炎上した大仏殿のそばにあるなど、天災人災が重なってさらに大気ばく露されている。このほか受座と扉の大部分は当初のままであり、注意して見るとかなり金メッキされた部分が残っている。

 また、薬師寺東塔(国宝,白鳳期)の三重塔の屋根上部の装飾金具“水煙の相輪”(扉ページ参照)は、高さ10mの金メッキされた飾りが、1000 年以上経過して今日に伝えている。

 やがて平安時代に入ると、唐様式の怪異でどぎつい姿の藤原調が現われ、これにもメッキ品が生かされている。当時のものでは精巧な透彫の中尊寺の幸髪や、鞍馬寺の経筒、唐草毛彫の延暦寺経箱などが有名。また、鏡も平安中期ごろから日本流の装飾模様を生み出しており、貴族の嫁入り道具の一つとして用いられ、これにも若干金メッキされたものが残っている。

 その後、政権の手が武士階級に移ると、甲胃や刀剣などにメッキ技術の需要が移って行き、やがて江戸時代に入ると町人階級がその経済力によって、黄金への欲望から若干の金メッキ技術の需要がキセルやかんざしなどに残し、伝統技術として明治の夜明けへ引継いで行った。

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