古代日本のめっき


古墳時代から

 日本に初めてメッキ品が登場したのは古墳時代からである。4世紀からその後約250年に及ぶ古墳時代に発掘されたものを拾うと、乗馬用の馬具・金具や、刀剣類、または儀式に使ったと見られる冠帽、金属製クツなどが金銅製としてある。乗馬の風習は、中国でも北方騎馬民族から伝えられてきたが、日本に乗馬の風習が入ってきたのは古墳時代以後からである。

 馬具の製作は大陸から渡ってきた帰化工人と、彼らの指導を受けた人々が加工していたが、大和統一に象徴される戦乱時代だっただけに馬具の需要が応じ切れなかったらしく、この時代は朝鮮、中国からの輸入品が多く出土している。

 この舶来馬具は銅製に金メッキしだものが含まれており、また鋳物品も鉄や金銅製の馬具を手本としていたらしく、工人たちはすでにこのころ黄金色に輝く金メッキの美しさを知っていた。

 6世紀前半の日本製馬具用に使われた金具は、1枚の厚い銅板を細工するか、あるいは鋳造製の青銅物から馬のくつわなどに使う杏葉、鏡板などの装飾金具を作り、この表面に前記水銀アマルガム法によるメッキをしていた。

 京都府奉安塚古墳出土の鏡板、群馬県白石二子山古墳出土の方形鏡板と杏葉がそれで、後者のは鉄地金銅製で長さ13cm、 東京国立博物館所蔵になっている。


日本人が作ったもの

 刀剣類は、東京国立博物館にある双竜文環頭大刀は、朝鮮昌寧校洞古墳のものと同じ製作手法で、6世紀後半から7世紀初頭のもの。また千葉県木更津市金鈴塚古墳出土の双竜環頭大刀は7世紀ごろのもので、学界でも国産品と認められている。直刀的な大陸の刀剣から平安・鎌倉時代に発達したソリのある日本刀へと変化するキザシが発見されている。

 同大刀には鉄製の把頭部に、竜体を現わした銅張りの環頭幅12cmに金メッキしてあり、図柄も幼稚でノッペリしたもの。

 同古墳はまだ圭頭大刀があり、把頭の形状が玉器の圭の形に似ているため名付けられた。同圭頭大刀は群馬県藤岡市の一古墳、同県箕輪古墳からも出土しており、把頭部分や鞘(さや)の金具に金銅製メッキがとりつけられている。これらは7世紀の日本刀に共通する手法が認められている。

 また、金鈴古墳からは頭椎大刀が2振り発見されており、把頭部分がコブシ状にふくらんだ大刀で、古事記に「頭推之大刀」とあり、日本書記にも「頭槌此云,箇歩豆智」とある。 頭推は頭の塊であり、椎は槌の意。同刀剣は日本独自のもとで、把頭の銅板上に金メッキしている。


国産品 6,7世紀から

このように6〜7世紀より国産金メッキ品が現われているが、これらはいずれも古墳出土品であり、古墳に埋蔵する前に作られたことから考えると、時代はこれより若干前であることが推定される。

 これらの金・銅の素材は,銅が708年(和銅1)埼玉県秩父市に発見され、金はそれより後の 749年(天平21)睦奥国から発見されているが、これより以前の素材は大陸から舶来された仏像、鏡などの金製品、銅製品を鋳つぶして加工されたとみてよいだろう。

 問題は水銀であるが、日本では早くから奈良を中心に三重、和歌山県などから産出し、平安朝期には中国や朝鮮との交易に対し、わが国からの主要な輸出品となっていた。同地はいずれも古代の大和に近く、先進帰化人が生活していたが、あるいは足を伸ばした地である。このことから推想して、古代メッキ技術の発祥地は近畿付近ではなかろうか、そして同地から東海、関東と伝播されて行ったのであろう。


   ・次のページへ(奈良の大仏と表面処理)
   
   ・前のページへ(錬金術との関係)
   
・めっきの歴史 TOPへ