古代中国のメッキ


古代中国のメッキ

 B.C.500年前後 中国では青銅器に金メッキをしたり、象嵌(ぞうがん,象眼,金属・陶器・木材などの表面に模様を刻みこんで、その凹部に金・銀をはめこんで美化すること)で金や銀によって模様などをつくる技術が発達した。この技術はやがてスキタイ文化などによって,容器類のみでなく、馬車や寝台などの家具類にも金メッキや象嵌をした金具で飾るようになった。このころの金メッキは、青銅器の表面の彫刻文様の上に金・銀の薄板をかぶせるメッキが行なわれた。

 中国では金・銀は主として中央アジアの北方遊牧民から入手していた。このころ、中国で流行した帯(バンド)の駒形の留金にも装飾メッキが施されている。

 中国は金・銀を西方のアルタイ地域より輸入するため,青銅鏡を輸出していた。中国の青銅鏡が、アルタイ地域に今日まで残されているのもこのためである。

 古代中国でメッキ品が出現するのは春秋・戦国時代(前722〜前256年)の後半ごろである。当時は国内に幾つかの国に分裂して小都市国家が対立していたが、一方華北には、言語も通じない戒、狄、夷、蛮などと呼ばれる未開の狩猟を生業とした民族が居住していた。

 彼らは西周の末年(前800年ごろ)、たぶん北西平原地帯から陜西、山西にかけて気候が乾燥し、旱ばつが続出したため、この原住異民族の東方(中国側)移動が始まった。

 中国をとりまく東アジアの諸民族の中で最も強大なのは、北方の蒙古高原に本拠をおく匈奴であった。彼らは西のスキタイ族から騎馬と、それにともなう青銅の馬具や兵器をとり入れ、漢語の天子にあたる単干(ぜんう)をおいて、戦国末、とくに秦国と対立した。

 彼らは南の温暖で物資に恵まれた中国の平原にむかって騎馬で南下して行き、全蒙古を支配し、万里の長城をこえて山西、陜西の北部にふかく侵入してきた。しかし漢帝国(前207〜後195年)の出現で、一時はその侵入を食い止められた。この時代に発見された主なメッキ品は次のとおり。

  1.帯鉤(おぴかぎ) 長さ20 cm、 ワシントン市フリア美術館蔵,万里の長城付近出土。

    帯鉤は馬具の革バンドのとめ金に使う金属部品で、主要な部分に5個の玉飾をはめてあり、

    台は銅材に金メツキしてある。


  2.馬頭轅形飾 長さ13.3 cm、河南省輝県固囲村出土。

    車の轅(かなえ)は車軸をさし、その両先端に青銅製で渦文、鱗文などの装飾した金具をとりつけてある。

    その金具の表面処理に金銀メッキされていた。


北方から技術導入

 中国の古代金メッキ技術は、北方の匈奴→スキタイに影響を受けて発達したことが濃厚である。また中国の金メッキ技術を受入れる要素として、殷時代(B.C.3000年)ごろからの青銅技術の発達と河南省の洛陽、南陽から陜西省の西安付近、あるいは成都付近、さらにインドシナ国境付近などから水銀が産出していた。

B.C.212年  中国秦の始皇帝は、現在の中国の西安の郊外の地に、有名な安房宮をたてた。また驪山(りざん)に陵をつくったが、その中の棺をおさめる部屋は、明珠で明をつくり、魚膏を脂燭とし、金・銀で鳧雁(ふがん)のかたちをつくり、槨(かく・棺をつつむもの)は銅をもってつくったという。

 そして、その棺をおく部屋には水銀で、川をあらわしたとのことである、この水銀は巴蜀(はしよく、中国西南区四川省における古国の清家が丹砂(辰砂、硫化水銀)の採掘権をもって、始皇帝に供給していた。


中国の仏像にも

 200年ごろの中国は、後漢の時代で仏教の信仰がひろまり、金メッキした銅製の仏像が盛んにつくられた。金(きん)は水銀にとかしたアマルガムで銅表面に塗り、加熱して水銀を蒸発させ金を残してメッキすることが行なわれた。

 こうして、金メッキをした銅製品が金銅(こんどう)といわれるものである。なお、装飾品として金メッキの銅製品がいろいろとつくられている。そのうちの一つとして鍍金熊足獣環奩は、奩(れん)とは蓋(ふた)のある容器で、高さ19.4cm、口径18cm、 重さ18kgで、金メッキされていたものである。


  

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